【障がい者】が家族にいる現実。1

ナオコさん 自分にとってナオコさんは、叔母にあたる人物だが、ナオコさんは母の姉にあたる5人兄弟の長女なのだ。母が言うには「幼い頃、高熱を出してそれ以来熱が戻らず、白痴になってしまった」と言う。このハクチとはなんだろう?といつも考えていた。現在まで施設に預けられたままだ。母は令和2年2月3日に他界した。母の口癖はナオコさんに、「みんなより早く逝くように」とよく言っていた。

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しかし現実は、自分が先に逝ってしまった。さぞかし心残りだったろう。母の希望は実らなかった。正直、障がい者が家族にいるという現実は、あなたなら受け入れられるだろうか?障がい者がいるだけで家庭環境がガラリを変わることをあなたは受け入れられるだろうか?幼い頃から今に至るまで、自分を「まあちゃん」と呼んでいた。家族の名前と私の名前だけは言えたのだ。家族はもちろんだが、私の存在を認識したのは、なぜだろうか?初めての甥だったので記憶に残ったのだろうか?

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記憶はないが、たぶん自分の赤子の時、ナオコさんに抱きあげられたと思う。そう思うと感慨深い。私を見てなにを思い、なにを感じたのか?施設では、正月と夏休みがあり、ナオコさんが帰省してくるのだ。長男家と交互にナオコさんを預かった。母の姉なので会話が奇妙だった。ナオコさんは「えいちゃん」とだけしか言わない。父の名前は出てこない。「あんちゃん」と言っていた。父はやさしい人なので、躊躇することなく、母の姉の面倒を見ていた。

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外食に連れて行ったり、身内としてできる限りのことはした。それは肉親だからだ。長男宅ではそれなりの扱いをされていた。3食カップラーメンは普通だった。だからナオコさんはお腹を空かせて、冷蔵庫を開けて盗み食いをしたこともある。そのことを長男の嫁に叱られていた。長男の家では、お荷物の何者でもなかった。大人しい性格でつらいことも我慢して、モノも言えない。

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自分の置かれている立場を理解しているようだった。施設でも暴れるでもなく、施設の職員を困らせることもなく、障がい者のお手本、手のかからない障がい者だった。そんなナオコさんは現在どうのような状況なのか?長男の叔父さんに聞くしかない。母の納骨の時に叔父に会ったが、ナオコさんの話をすると、押し黙っていた。なぜなのか?写真を整理していると、数多くのナオコ叔母さんの写真が出てきた。私の家族はナオコさんをどう見ていたのか?

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私自身ごく普通の叔母さん、だが、精神に障がいを持った人。昔、悪ガキが叔母さんを馬鹿にして騒いだこともあったらしい。そんな時、父親は激怒して悪がきどもを叱りつけた。街では有名な叔母さんだった。珍しいとでもいうのだろうか?ナオコさんを馬鹿にするとか、違和感を感じるということがまったくなかった。それを言葉に言いあらわすには、言葉が見つからない。5歳児で脳は発達を辞め、体だけ成長していった。成長していく過程で幼くして実母が亡くなり、父一人娘一人の生活になった。実父が存命の頃は、ナオコさんの笑顔が良く見れたものだ。喜怒哀楽があってよく笑っていた印象がある。古い長屋で父親と生活していた。ナオコさんにとって

実家での実父との生活が一番の幸福だっただろう。

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余計なお世話だが、そうなると私生活は想像するに値しないが、成人したナオコさんは一人では入浴できないので、同居の父がナオコさんの入浴を助けたのだ。思い出すのは、木の樽のような浴槽で寒かっただろう。染色業を営んでいたので、その工場の一角に浴槽の樽があった。冬は寒かっただろう。その片隅で仕切りもなく入浴したのだ。

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私の感覚では、親戚の叔母さんで住んでいるのは施設だと言う認識だった。だから昔彼女を実家に連れて来た時、ナオコさんは帰省で実家にいた。それを見た彼女はなんと感じただろうか?長い付き合いの中で、私の家系に障がい者がいるという認識を持っただろう。それはある意味失敗だった。逢わせるべきではなかった。結局彼女とは破局した。