懺 ざん  

懺 ざん  

 

人生は終わっている。

腐った過去を思い出すたびに、強く激しい頭痛が襲い、後悔と嫉妬し、吐き気をもよおす。

そのサイクルは、前よりも、早くなっている。特に繁華街に出て、親子連れを見ると、ひどくなる。

子供がかわいい。心の底から今はそう思える。若いころは、邪魔としか感じなかった子供の存在が、今となっては、買うこともできない、遠い存在となってしまった。ただただ悲しい。

それは、死を意味している。

 

 

佇む女

冬の日、いつもの帰りレコード屋を覗いた。それは、5階にあるレコード屋。一通り見て回り、階段を降りると、踊り場のベンチで一人の女がぼんやり佇んでいた。それは、自然な風景に溶け込んでいるように、レコード屋から流れる音楽に耳を傾けていた。

人気の少ないこの場所と時間は、気だるい雑音交じりの音楽を聴くには最高の場所。

時々、空調に消される音もそれはそれで心地よかった。

自分の居場所を見つけたように、世捨て人の無残な中年女が座っている。同じ感覚の人にしかわからない底知れぬ絶望感を抱えた雰囲気。

目が合うと、女は半べそをかきそうな表情になり、今にも泣き崩れそうな顔をした。このまま見続けると、女は号泣するのではないかと視線を外した。

女を抱きしめたいがそれはできない。

例えそれができても、女は絶対に拒否をするだろう。だが、女は誰かに、それを求めているのだ。

ワンフロア下には、子供たちが若い親と賑やかに戯れている。

 一瞬に、女の心の奥を覗いたような気がした。そして身震いした。彼女の今にも泣きそうな理由。

後悔と悲痛が混在している暗黒の叫び。

レコード屋から流れるメロディな音楽は、心象風景をあらわにするなにかがあった。

私も涙しそうになっていた。

女はここにいて、階段のベンチに座り、いつまでも想いにふけっている。

ベンチさえあれば、女のように場末の音楽をぼんやり聴いていたい、けだるい時だった。一時の幸福な時間を持ちたい。人気のないこの場所は、ひっそりと音楽を聴くには最適な場所だ。

 階段下の子供たちは、女の心象風景を映し出している。

夕方の時間、女に子供がいたなら、とっくに家に帰り夕食の支度をしているだろう。子供のいない女の悲しみは、どん底に近い深い悲しみに違いない。

わかる。なぜ女の苦痛が理解できるのか?わからなかった。なぜ男の自分が彼女の気持ちを理解できるのか不思議だった。女の悲しげな表情には、同じ心象風景があり、そして共鳴していた。

誰にも見られたくない不確かでおぼろげな存在。誰にも悟られたくない存在。

できれば透明人間となり、他人は意識しないでほしい。それが願い。そこには、同じ感覚を共鳴してしまう負の連鎖を持った者が出逢ってしまった。

 

 バスの中

初夏の夕暮れ、バスの中にいた。

まばらな乗客を乗せ、ローカルバスは日暮れ行く森の中をカタツムリのように走っていた。

乗客は、皆うつむきかげんでこの世の不幸を

背負っているようだった。生気が失せている。乗客たち皆無言で、背中を向けている。

運転手は最後尾席からは見えない。

見られているような錯覚、見張られているという感じ。

まさか運転手がいないのにバスが勝手に動くはずもないが。

斜め前の乗客の一人の手が伸びた。

伸びた手は白骨のような指だった。そして、ボタンを押した。プーと間の抜けた鈍い音がした。バスはザザと、砂利を踏み停留所に止まった。

影のようなつなぎを着た男が、立ち上がるとバスの先頭に歩いていく。油で滲んだつなぎの後ろ姿は疲れ果てていた。つなぎの男は、ステップを一段降りたところで、私の方を振り向いた。一瞬ドキッとした。帽子をかぶった顔は真っ黒で表情がなかった。

次の瞬間、つなぎの男は消えていた。

そしてバスは、走り出した。

この停留所は、子供のときよく見た木の電柱だ。黒いコールタールが熱で垂れ、黒い塊ができている。その塊をつぶすくせがあった。

電球が灯っているだけの停留所だった。

しかし、こんな深い森の中に家があるのだろうか?

つなぎの男を見たが、なにをするでもなく、どこへ向かうのでもなく、ただ突っ立っているだけだった。

この男は一体どこへ行くのだろう。

外はすでに真っ暗闇で、ブラックホールの中に吸い込まれるようにバスは走る。

眠気が襲う。浅い眠りに入るとブザーの音がした。

大きなふろしきを背中に背負ったおばあさんが通路を歩いていた。行商の帰りだろうか。運転手と二言三言話をしている。

聞こえない小声で話をしている。

この停留所には明かりがない。真っ暗だ。

おばあさんはステップを降りた。

おばあさんの家は、森の中にあるのだろうか?洞穴?こんな時につまらないことを考えるのも憂さ晴らしだ。

おばあさんの姿は、消えていた。

木々の間にぼやっと光るものが空中に漂っていた。おばあさんの懐中電灯かなんかで、足元を照らしながら歩いているんだろう。

バスは走り出す。

確か記憶では、他に数人の乗客が降りていた。慣れないバスでほぼ寝ていたようだ。寝ている間に乗っていた数人の乗客はそれぞれ、家路に帰ったのだろう。

案ずるまでもなく、乗客たちは、ただの仕事帰りだったり、行商の帰りだったり、毎日、毎日、同じことを繰り返している日常なのだ。たまたま私のような異邦人が場違いな空間にいて、自らが違和感を漂わせているだけなのだ。

スマホの電波はとっくに圏外になってい。何もすることがない。

また、それからずいぶん寝ていたようだ。ふと起きてみると自分しかいない。最後の乗客というのもなんとなく気が引ける。自分のためだけに、このでかい車体とガソリンを使わせることに申し訳ない。

ついさっきまで私以外乗客がいたと思っていたが、みな降りたのだろうか。

しかし、一体いつになったら到着するのか。

 

手紙 

なぜ、こんなことをしているのか?

つい1週間ほど前に、手紙を受け取った。

それは、10年前に別れた彼女からのものだった。名前はさとみ。さとみとは10年以上付き合っていた。

たぶん私のことを私以上に知っている女なのだ。それなのに別れた。いや自分が追い詰めた。そう自分がさとみを追い詰め出て行くように暗黙の中で計画していたのだ。

10年もすれば、結婚してもいいはずだ。

それなのに結婚する気持ちになれなかった。それは、つまらないこだわりが原因だったのかも知れない。

まず、私は酒は飲まない、と言うより飲めない。そして、ギャンブルは嫌いだ。タバコも吸わない。だからと言って、真面目ではない。さとみはことごとく真逆だった。

私が悪と決め付けていることを、簡単に突破してくれる。だからもし、さとみを妻とするなら、譲歩すべきことが山ほどあることがわかっていた。だから、結婚に踏み切れなかった。

20代から付き合い、30代で別れた。さとみと別れても、次に新たな女と付き合うだろうと簡単に思っていた。しかし現実は、どうしたものか、その後さっぱり女との縁が切れてしまった。

性欲ばかりの盛りついた雄といった感じだ。どのカップルもそうだと思うが、最初は夢中でセックスをする。それは相手を愛というより、失いたくないという欠乏感だからだ。

しかし時間が経つと相手の欠点が目立ち、それが徐々に増幅して許せなくなってしまう。そこで自分を押し殺せばいいのかも知れないが、そう簡単に自己犠牲の精神などできるわけがない。

結果、別れるという選択しかなくなるのだ。

私とさとみの場合、お互い不信感が大きくなり、男が妥協すべきところを妥協できず、まるで子供のように駄々をこねた結果、さとみを追い出してしまったのだ。

そう理解している。さとみはたぶん怒っているだろう。そう思い続け、現在を生きてきたのだ。

最後の印象深い出来事がある。さとみが使っていた姿身の鏡が部屋に残されていた。さとみから連絡を受け、これを「返してくれ」と。

一応手切れ金と証する。引越し費用を出したが、「足りない」とも言われた。さとみの荷物がすべて片付いた部屋は広く感じた。

次の日にさとみに逢った。

引越しの最後の日、さとみの後ろ姿を見て、後ろから抱きついた、久しぶりの感覚だった。さとみはなにも反応しなかった。

鏡を丁寧に梱包し、明日さとみに会うことを少しためらっていた。

そして、駅で待ち合わせをした。さとみと逢ったのはそれが最後だった。

お互い無言で、鏡を返した、

確か「ありがとう」とさとみが言っていたような気がする。さとみは復縁を望んでいたのだろうか?すぐには立ち去らず、反応を見ているようだった。

「じゃ」というと、その場を立ち去った。

今、考えれば冷たい男だ。女をひとり置いてきぼり、男として卑怯極まりない。

そう思うようになったのは、数年後だった。

煩いさとみから解き放たれ、晴れて自由の身となった。

しかし空虚なわびしさを感じていた。

友人もいない私にとって、さとみはかけがいのない人だったからだ。そう思うと後悔が残り、絶望が近づいてくる毎日だった。

私のような奇人変人と一緒に生活できたのは、さとみしかいなっかたからだ。

住所も知らないから自分からは連絡のしようがない。さとみの実家の住所なら知っていたが、さすがに実家に連絡するのは、気が引ける。 

自分の親にはさとみは紹介したが、母に結婚しろと催促されていた。やはり母は正しかったのだ。悔しいが、母はいつも正しい。

セックスレスになり、お互いを求めなくなったそれは、別れる一番の原因でもあった。

アメリカ人はいつもキスというボディーランゲージで、愛しているという行動をする。

わざとらしいかも知れないが、そういう強烈なリアクションが必要だった。

わかっているとか、恥ずかしいとか暗黙の了解ではなく、ダイレクトにあったほうが安心するものだ。

そんな1秒も戻れない世界に思いを手繰り寄せるのは、惨めな男の残骸なだけだ。

今は、その残骸と、残りかすのような人生を呆然と生きている。

こんな時にさとみからの手紙は、驚きと同時にうれしさがこみ上げ、涙が出たほどだ。

いつか謝罪したい、謝りたいと願っていた。

そして、さとみと以前訪れたことのある温泉地への誘い。これは一体何を意味するのだろうか?

深く考えもせずに、行動していた。

無職の私には腐るほど時間が余っていた。

考えれば、考えるほどさとみと会ったらどういう展開になるだろう?と思い巡らしていた。

選択筋をいくつか考えた、1つは、復縁して結婚を前提に付き合う。

2つめは、今までの蛮行を叩かれ、さとみのストレスが晴れるまで、ののしられる。

3つめは、なにはともあれ、セックスする。

4つめは、ただ彼女の暇に付き合わされる。

いろいろ考えると出口が見えなくなり、まさに迷宮の中に迷いこんでしまう。記憶と懺悔、希望と落胆の迷宮は到底抜け出せるものではない。人は弱いから、いろいろ考えすぎて精神を病むのだろう。 

 

最終停留所

終点にバスは到着していた。

すっかり寝ていたようだ。バスに揺られて、からだの隅々が痛い。なんだか筋肉痛のようだ。

荷物を持ち、前に歩くとすでに運転手の姿はない。帽子だけが置いてあった。バスを降ると、虫の爆音が待っていた。

ぼんやりした明かりが見える。休憩所だろうか建物があった。待合室と剥がれかけた白いペンキの看板が見えた。

とりあえず、明かりに向かって歩く。

待合室の引き戸を開けた。中は人工的な蛍光灯の灯り があり、光にまとわり付くように蛾や夜行性の虫たちが飛んでいた。

季節はずれの達磨ストーブがほこりにまみれていた。

券売機の裏の部屋から、音が漏れていた。

テレビ中の音楽番組らしい。懐メロがやっていた。しかし昭和の曲ばかりで時代を感じさせる。地方のローカル放送では、年寄りが多いから、むかし懐かしい曲のほうが受けるんだろうなと思っていた。

正確には40年くらい前のヒット曲ばかりだ。キャンディーズピンクレディー、ジュリー、郷ひろみ

今で言う、アイドルの原型だ。北島三郎、村田秀雄も健在だ。司会は、玉置ひろし。

この頃の司会者は皆プロ意識が強く、凡ミスをしなかったなどと思う。

昔のテレビ人は仕事が丁寧で律儀だった。

ベンチに腰掛、懐メロを聞いていると。自分が現在、高校生のような錯覚になった。

あの頃、18歳。哺乳類ヒト科として絶頂の時だ。この時期を私は、腐ったシダ植物のように精神が荒廃し腐敗していた。

他人の輝かしい18歳を羨み、他人の健全、健康な18歳を妬んでいた。

歪んだ18歳が成長し、現在ここに、歪んだ萎れかかった中年男の惨めなヒト科がいる。

記憶は恐ろしい、懐メロを聞いているだけで心臓の鼓動が早くなり、息苦しくなる。

懐かしいとか、そういう感覚ではない。精神と身体、感覚を破壊する音楽兵器のよう。

耳を閉じ、頭を股の間に挟まんところまで下げていた。

 

番頭

すると、車の止まる音がした。キュッバタン。足音がこちらに近づいてくる。

立て付けの悪い引き戸を、力づくで開ける音。ガガガガと引き戸が開く。

ここがどこなのか一瞬忘れていた。

「柳井さまですね・・・・」というしわがれた男の声がした。

私は、顔を上げ男を見た。

旅館のハッピを着た初老の男が立っていた。私は、「はあ」と気の抜けた声で答えた。

「大変お待たせしました、お迎えにあがりました・・・」というと私の荷物を持ち待合室を出た。

この空間が嫌いではなかった。できれば、このままここに住んでもいい、いや死んでもかまわないと思うほど、居心地のいい空間だった。だから離れがたかった。

外に止まっていたのは、真っ黒なボディの

日本車だった。ダットサンの日本車。

乗ると骨董品屋の匂いとも言うべき、独特の匂いがした。悪い臭いではない。黒光した内装も高級感が感じられ、昔の職人は几帳面だったのだなと感じていた。発車した。

乗り心地は悪くない、少なくともここまできた路線バスより格段によい。

走り出して数分、バックミラーで私を見ている番頭。夜道の山道を走っているのだから、もう少し前方に注意を払ってくれとお願いしたい。しかしそんなこと、お構いなく、ジロジロと私の顔色を伺うように見ている。

誰だって理由もなく、ジロジロ見られたら腹がたつものだ。田舎モノは、まったく常識と言うものがないのか?

 「いやねお客さん、当旅館は長い歴史がございまして・・・」と旅館の説明をし始めた。

「平家の落人が発祥と言われてまして、傷を癒すため、温泉を見つけ、ここに住んでいたそうです・・・で当館の初代は平家の落人の血の流れを引く高貴な人だったそうです」

反応を見るように、チラチラと見る番頭。

「現在はあと取りが不在のため、女将と数名の女中が住み込みで働いております・・・私は元々マタギでして、鉄砲をもたせたら、百発百中と言われるほど腕はええんです・・・今まで鹿、猪、熊、うさぎ、キジとか捕ってきたんですが、今考えると殺生なことばかりしてきたと、反省してます・・・畜生とは言え、山の神様のもんだし・・・それを考えるとなんだか、泣けてきてね・・・なんでしょうかね」

まったく番頭の話など興味がなかった。

「だからなんだ?」と問い詰めたくなるほどだった。年寄りの話は尽きないのが常だ。

ボランティアとして聞き流していればいい、そう思へば気が楽だ。

話に夢中でも、運転技は見事なものだ。

マタギの反射神経の良さなのだろうか?

「で、連れはもう来ているの?」

「お連れ様でございますか?はい、とっくにお待ちになっております・・・お客様がこられるのを心からお持ちしているようで・・」

少し安堵した。私を待っていてくれる。

ということは、少なくても、さとみから歓迎されているということだ。きっとそうだ。そうに違いない。急にうれしくなった。

股間に熱い血が流れ込むのを押さえられなかった。

それから、車内の空気を読んだのか、番頭は話しかけなかった。

年寄りの自慢話ほど半分作り話が多いし、同じ話の繰り返しで真剣に聞くまでもないのだ。とはいえ、やはりチラチラ見る仕草は変わっていなかった。

外は、密林のジャングルの山の中なのに、車内の豪華なソファと涼しさの快適さは、まるで別世界のようだ。

ここは、新宿と言えばそう思えたかもしれない。新宿の森を通過しているのだと思えば、次の角を曲がると都庁の高層ビル群が見えるかもしれない、そんな気さえする。

一歩外に出れば、残暑に残った暑さと、山特有の湿度と森林浴とやらで包まれることになる。別に嫌ではないが。

さとみを考えると混乱する。

その時、その場所のシチュエーションを独り言のように考えていた。

それが私として正常を保つ防御策なのだ。

都市では理性が働き、やっていいこと悪いことを判断できる。

しかし、いったん街を離れ、自然の中に入ると自分の存在が在りすぎて、自然が自分を絞め殺そうとしているような錯覚。

昼間の自然は、友人のように親しみを感じるが、夜の自然は何が飛び出してくるかわからない不気味さがある。 

光をつけると、光に突進する蛾やカナブンは体当たりしてくる。街ではせいぜい蚊か、ハエくらいなものだ。

 走る車に体当たりする虫が無残につぶれる。フロントガラスにねっとりとした虫の体液がこびりついた。番頭は、チェッと舌打ちをする。

 ここは、ヒトが住むような場所ではないのだ。虫や野生動物が主でヒトは後からここに住んで、偉そうに振舞っているだけだ。

 温泉は、自然の恵み。独り占めをしてはいけない。

 思い浮かぶままに自問自答している自分。 さとみは何を考えているのか?知りたい。怖い。セックスしたい。温泉に浸かりたい。

「番頭さん、まだですか?」

「ああいや・・・じき着きます・・」

 よく見ると番頭の左の小指がない。急にこの番頭が恐ろしくなった。その筋のヒトであることには違いない。

よく機械の操作中に指を落としたとか言う人もいるが、そんな嘘を信じる人はいるのだろうか。

わけがあってこんな人里は離れた宿の番頭をやっているのだろうが、自然は人の罪悪まで飲み込むことができるのだろうか?

鹿や猪を狩猟したと言っていたが、それも疑わしい。まさか?人をハンティングしてきた男かも。益々恐ろしくなった。

さっきまでの余裕が無くなり、疑いをかけるようになった。しかし、もう番頭のことを考えるのは辞めよう。

「お客さん、着きました」

やれやれ、心身ともに疲労困憊だな。

これから、大事な人と話をするというのに、もう思考はグロッキーだ。

番頭がドアを開けた。体を外に出すとあくびついでに、思い切り背伸びをした。目をこすり旅館を見た。

 

旅館での一夜

昔の武家屋敷を改造した豪農の屋敷と言った風情で、大地にどっしりと根の生えたような建物は、自然の中で見事に調和していた。

知る人ぞ知る隠れ旅館の名にふさわしい。

玄関には、着物を着た3人の女中が並んでいた。

私を見るなり、お辞儀をして出迎えてくれた。女将らしき女が、

「あらまあ、遠いところまで起こしくださいまして、本当にありがとうございます・・・お疲れでしょう・・・」

「はあ・・・で・・・連れの者は?」

やつれた声で答えた。

帳場でサインをする。そこには、確かにさとみのサインがあった。

女将は、丁寧に挨拶を終えると、私の荷物を持つと、「ただいまご案内申し上げます」と言い、廊下をささと前を歩いた。

女将の後ろ姿を追っている自分は一体なんなんだ。和服のお尻のあたりはどうしてこんなにも卑猥なんだ。

と思い、どうしても女将の左右に移動するお尻に目がいってしまうのだ。

私はそれほど悶々とした日々を過ごしていたから許してほしい。 

しかし、この旅館の広さは半端ではない。

何度左に曲がり、右に曲がっただろうか?

さらに上ったり、下ったり、一体どういう構造なんだ。建て増しか?

増築をするとこんな感じになるものだ。

ここもそういう類のつくりをしたのだろう。いつまで、続くのだろう。

私は永遠に女将のお尻を眺めながら、後ろを歩くのだろうか?

女将の姿がふっと消えた。角を曲がれば女将の大きなお尻があると思っていた。

次の廊下の角を曲がると薄暗い廊下しかなかった。人気のないというより、人の温もりが全く感じられない空間だけが私の前にある。

立ち止まり?首をかしげた。

恐怖と言うものではない。いや決して誇張しているわけではない。ただ漠然と空間があり、私がポツネンと、そこにモノとしてあるような感覚なのだ。

モノは、自分が壊されようとしている時、恐怖を感じるだろうか?ただ壊されるがままに粉々になるのだ。それは、恐怖ではない。

あるがままの姿なのだ。

ゆっくりと歩き始めた。両側の重厚な襖は何百と続く。不思議とも思わない。

シーンと静まっている。鈴虫の音が聞こえる。

立ち止まりぼんやりしていた。すると

ガラッと引き戸が開いた。そこに、三つ指をついたさとみがいた。

心臓が飛び出んばかりに驚いた。

確かにそこに正座しているのは、さとみだ。

年月は隠せないもので、記憶の中のさとみとは少し印象が違っていた。あごがしゃくれている感じや、やや釣り目のとこや、ショートカットのところは、前と同じだった。

私を見て、

「おひさしぶり」と言った。

なんと返せばいいのか、頭の中で整理できなかった。心拍が落ち着いてきて、やっと話ができる状態になった。

「元気だった?」これくらいしか言えない。

そりゃそうだ。

十年前という年月を考えれば、おしゃべりな奴でも、最初からベラベラしゃべれるほうがおかしい。

「やなぎーさん・・・」とつぶやいた、さとみ。

これは付き合っていた頃さとみは自分のことを言う呼び名だった。なんだか照れくさかった。

「やなぎーはここに来たんだね・・・」

「ああ、手紙受け取ったよ」

「ああそう・・・(急におどけて)ねえびっくりした?」

「そりゃ・・・突然びっくりするよ・・・なんで住所わかったんだ?」

答えないさとみ。

「そう、じゃあどうする?」

「どうする?」

「ああ・・・どうする?」

ここで彼女を怒らせるようなことを言ってはならない。

今晩、さとみを抱くことも出来なくなる。

だめだ自我が出てしまう。挑発される私はただ黙っていた。

「まっ入りなよ・・・」 

さとみは少し男勝りの女なのだ。

だから、私との会話でも、平気で男ことばで話してくる。それがさとみという女なのだ。

関西弁を隠しながら、関東に住んでいた。関西という土地に慣れたくなかったからだ。

まあ気の強さにかけては、まさに男勝りの女なのだ。

しかし私は、そういう女が好きだった。女を強調させる女より、殴ってくるような女の方が好みだった。そういう性向を持っていたのだ。

さとみは、奥の間に消えた。部屋の中はだだっ広い畳の空間があった。

その中央には昭和初期の家具や調度品が惜しげもなく陳列されていた。整然と並べられた骨董品は、一つ一つが強烈な個性を発揮して、自分の存在を主張しているようだ。

さとみはソファに座っていた。女将はお茶の用意をしていた。

動作に無駄がなく、熟練した茶道の師範のようだった。只者ではない。芝居をみているような気さえする。

湯気を出し、注がれるがままに湯飲みに流れていく。上質なお茶に違いなかった。

さとみは、そんなことはおかまいなしに、外の

何もない闇を見ている。

女将は、夕食の時間を告げると部屋を出て行った。

残された二人の男女は、こういう時何をすればいいのか?

柱時計の振り子が時を刻んでいる。

コッコッコッコッ永遠のゼンマイ仕掛けの時計。

人がネジを巻いてあげないと、死んでしまう時計。それでいいのだ。永遠などないのだから。

むしろ死なないほうがおかしいのだ。

お茶を飲んだ。お茶の旨みが引き立ち、やはり極上のお茶だった。

「なあ、さと・・・このお茶すごくおいしいよ・・・ねえ、あの女将ただ者じゃないね」

さとみは誘われるがままに、湯のみを取るとお茶を飲んだ。ふーというため息が漏れた。

「なあ、おいしいでしょ」

さとみは無言で、コクリとうなづいた。

しかし、さとみがこうも無口なのも困ったものだ。

なんの為に私をここに誘った理由を知りたい。

そんな私のわだかまりなど一切関係なく。さとみは落ち着いていた。

ここで焦って質問攻めにしたら、さとみは嫌がるだろう。ならば持久戦ということで、さとみの出方を待とうと決めた。

すると、体のこわばりも取れ、自然体になることが出来た。すると見えないものが見え、聞こえなかったものが聞こえてきた。

天井の黒ずみ、磨かれた大黒柱、磨りガラスの模様、外の蝉しぐれ、木々の風に揺れる音。ここは時間が止まっている。

ここは、さとみの理想を忠実に現実化した世界のような気がしてきた。

モノを大切にする趣向や、骨董趣味があるところなど、さとみにとって、ここはまさに理想の場所、夢の部屋だった。

 

 

記憶の中 

十年前の記憶が蘇ってきた。当時それは私には理解できなかった。そのことが今やっと理解できるようになった。現在の私が前より少しばかり成長していたのだ。

「そうだよ」とさとみが突然言った。

「はあ?なにが?」

「やなぎーは理解することができない、ろくでなしなんだよ・・・」

いきなりさとみの言動に躊躇した。

「おまえは、何をしていたんだ?」

ようやくさとみが口火を切りだした。とはいえ、調子に乗っていいものだろうか?

ゴクリとのどの奥から、得体の知れない塊が動いた。

真剣に答えるべきが?おどけるべきか?

ああ、ここが分岐点なのだ。

こんな時に、何も、言葉が思いつかない。まずい、非常にまずい。

私の言葉でさとみは決断しようとしている。そうに違いない。今のわたしは、たぶん、表情は苦悶して、眉間にしわを寄せているに違いない。

またしても余裕がなくなった。行き詰った。

「さみしかったよ・・・いろいろ・・・」ぽつりつぶやいた。

さとみは、ニヤッと表情が動いた。

そして笑い出した。

徐々にその笑い方が大胆になっていった。快活な笑い、あざ笑い、中傷?

まあ、なんとでもしてくれと言う感じだった。

さとみの落ち着くのを見ていた。

笑いも飽きたのか、徐々にトーンが落ちてきた。

「なんじゃそりゃ・・・ひひひひ」

「悪いのか?寂しかったじゃ・・・」

「別に・・・」と言ってさとみの目が潤んでいたように見えた。

1秒1分と時間は戻らない。さびしいという感情は記憶の中の幻影なのだ。

しかし幻影は私の中で勢力圏を増し、私を支配している。

寂しいというネガティブな勢力が私の8割を占めている。どうすることも出来ない。

虚しさ、寂しさ、孤独は記憶を手繰り寄せても解決するものじゃない。

それは、ますますいい気になって勢力圏を拡大するだけなのだ。

さとみは、鼻をすすった。

今にも爆発しそうなさとみの気持ち。そこには、どん底の恐ろしさを秘めていた。

刃物があれば私の心臓を突き刺すか、自分の頚動脈を切るような鬼気迫る眼は真剣そのものだった。



風呂場

ここにいるのが不自然な状況なのだ。気持ちと体は、もはや逃げ腰になっている。

それを察したのか、さとみは、

「なあ、ここの温泉入ってこいよ・・・」

温泉好きの私の楽しみは、この時を待っていた。それどころではない状況。しかしどう切り出すか迷っていた。

冷静に、「ああそうだね、番頭さんもここの風呂は平家の落人がなんたらかんたらと説明してくれたし・・・どんな露天風呂なのか楽しみだ」

汗臭い服を脱ぎ、浴衣に着替えた。

しかしさとみは、一切見ない。というか私にまるで興味がないようだった。

少しは裸を見て、

「おまえ下腹が出てきたな」とか、

「メタボ気味だな」とかからかってほしかったが、ここにいるさとみは、真っ暗な外の景色を見ているだけだった。

今のさとみに、おふざけなど通用する雰囲気ではなかった。まるで氷河期のように、青くて、硬い氷がさとみを封じ込めているようだった。

鏡で私の着替えを見ていたに違いないが、無反応だった。

さとみのこの深い悲しみ、深い絶望は一体なにを意味するのだろうか?理解できない。

私は「じゃ」というと部屋を出た。 



迷路

しかしこの部屋に辿りついたのも、偶然だったわけだし、この幽玄の間という部屋は、歴代の有名政治家が宿泊したという隠れ宿だったらしいが、この旅館を知らないお客だったら、迷うことは絶対だろう。

なぜ迷うような建て増しをしたのかわからないが、商売が繁盛して部屋が足らなくなって部屋を増やし続けたのだろう。

そう考えるのが当たり前のような気がする。たぶん女中しかこの旅館の全貌を知る者はいないだろう。いや誰も知らないかも。

ややこしい旅館なのだ。

さとみがここを選んだ理由がわからない。

豪華さは、大正ロマンを感じさせる雰囲気の豪奢な佇まいだ。

スリッパの足音だけが、黒光りした廊下に響く。うっそうとした中庭の木々が、生命を吹き込まれたように、葉が縦横に伸びている。

美術館のような中で迷っている自分がいる。

静けさの中にあるどす黒い恐怖。

犬や猫には理解できる動物的感というもの。

廊下の隅にぼんやり置かれた灯篭の火が風もないのに揺れている。

階段を上る。開かずの間のような半世紀くらい開いていないような部屋。

前方を見ると影が横切ったように見えた。

シャイニングの双子の姉妹。

残酷な歴史がこの館にもあるのだろうか?

見られている強烈な感覚。いったい誰に見られているのか。

階段を下りる。一段一段と、灯篭の前に人影がある。

一瞬心臓が止まらんばかりに驚いた。

あれは、誰?

日の暮れた川原を歩いている少年がいる。

自分の方に歩いてくる。私とすれ違いざまに聞いた。

「君は?」

少年はうつむいたまま答えない。

少年のそばには、一匹の子犬がいた。

子犬は私に親しげに寄ってきた。かわいさのあまり私は子犬を抱きかかえた。

少年はうつむいたまま私を観察していた。

「あんたは間違えた・・・」とぽつり。

「えっなにを・・・?」

「間違えたんだ」

少年の言葉を理解できない。

少年は更に、

「僕はこうして来たのに、あなたは僕に来ようともしなかった・・・来ようと思えば来れたのに、あなたは僕を見捨てたんだ」

「ちょっと・・・誰だか知らないが、なんで僕が君に会わなくてはならないんだ?理由がわからない?」というと、

「いつも、そういう自分から逃げてきた。いつも逃げてきた・・・だからこうなったのさ」

「よくわからない・・・」

「あなたは、僕。僕はあなた・・・それだけのこと・・・」

その時ハッ背筋がゾックとした。

前にいる少年。それはまさしく私そのもの、少年期の私だった。

子供の頃、大人になった私に会いに来てほしいと願った。しかしその願いは叶わなかった。

夕方の川原で草が生い茂る角を曲がると、十年後の自分がいるのではないかと思っていた。ドキドキしながらひとり家路に着いたものだ。

街の廃屋に入ると、そこには「やあ」と言って私に会いに来て、幸福な人生を教えてくれる私がいるのだと願っていた。

その願いは叶わず、大人の私には会うことができなかった。

私の少年期の夢は十年後、二十年後の私に会うことだった。

それが、逆にその少年期の私が大人の私に会いに来た。だから少年は、私をにらんでいるのだ。

 私の笑顔はない。少年期に写る数少ない写真には、暗い重苦しい顔の私しかいない。

学校の集合写真など下を向いている写真ばかり。友人のいない私は、一人の写真しかない。友達と写っている写真など一枚も存在しない。見たことがない。

「あなたが来ないから、今のあんたがいるんだよ・・・あなたが来ていれば、もっといい人になれたんだ、あなた自身が僕をだめにしたんだ・・・」

その場に立ちつくしていた。

「僕はあなたを好きになれない、僕はあなたを好きになれない」

深層にある意識。

それは、自分が嫌い。自分を好きになれない。

少年は私。幼い頃より、自身をよく知っていた。

少年は寂しそうにどこかへ消えていった。

あの子犬はコロだ。コロは足が短く、よく馬鹿にされた。それが嫌で、親に頼んで焼却所に連れられ燃やされたのだ。

鮮烈な記憶に残る懺悔史の一つ。

かわいそうなコロ。私に気まぐれで殺されて、さぞかし無念だったろう。

記憶が暗い迷路の中で現実化されている。 

迷路は記憶の再現装置のように、動いている。

トントントンと言う音が聞こえる。割烹着を着た母がいる。テーブルには、ビールを飲んでいる父がいる。

私と弟は、フランダースの犬を見ている。

ネロ少年がレンブラントの絵画の前でパトラッシュと眠るように亡くなり、天使たちがネロ少年とパトラッシュを天に召されるシーンで私は泣いていた。その時の夕食がクリームシチューだった。

ネロ少年の最後の言葉が

「僕もう疲れちゃったよ・・・」

私はネロ少年の言葉を神聖な言葉として人生に刻んだ。

呆然とその光景を見ている私。

母の後ろ姿は、家族への愛に満ち溢れていた。父は疲れてはいるが、赤ら顔で冗談を言って近所の話題を話している。

みな若いそして、笑顔だ。笑っている。みな楽しそうだ。

この頃は、これが幸せとは思わなかった。

しかし、この幸せそうな家庭の風景を見ていると、それが幸せだったのだと実感できる。不幸の一生ではなかった。

両親があり、兄弟がいて、愛される私がいたにちがいない。その息苦しい愛からいつも呼吸困難を覚えていた。 

真っ暗なスクリーンから家族が消えていく。

それは最後のレイトショーが終わり、映写技師がタバコを吸う終了時間。

映画が終わると頭の割れるような、頭痛とめまいが起きた。

頭を抱えながら、脳ミソが耳から飛び出ないように耳を押さえている。

足元はおぼつかない。フラフラと右へ左へ千鳥足で歩いている。

目の前が真っ白になる。私は視界を失い、その場にしゃがみ這っていた。

陽炎のような洞穴がある。一か八かその穴に入ることにした。

洞穴は生き物のように柔らかく、湿気ていた。生きることに必死になっている自分がもどかしく、とてもキライだった。

戻りたくない私と生きたい私は、必死にもがいている。滑稽という他ない。

眼を閉じた。部屋で気持ちを落ち着かせると安堵感が私を包み込んだ。

すると、さっきまでいた部屋を見ている。それも不思議なことに上から見ている。

私がいて、いるはずのさとみがいない。

私はなにもない座布団に、おしゃべりをしている。

変だ?私はいったい誰と話している。誰もいないのに。さとみはどこへ行ってしまったのか?

私はなべに箸を突っ込んでいる。

一人で笑っている。これじゃ一人芝居じゃないか?

私は自分に近づき大声で、「お前は誰なんだ」と言う。

しかし反応がない。そして叩こうとするが、体を通り過ぎる。実態がない。存在しない私がいる。

存在しない私。今意識している現実なのか、わからなくなっている。

自分の体にスッポリ入った。居心地の悪い器だった。

蒸し熱い感覚とドシリとした重い重圧は、とても快適とはいいがたい。

ここはどこなんだ?戻ったのか?

 

頭を抑えて立ち上がると、めまいがした。

障子を開けると、夕食の料理が並べてある。

一人用の鍋は少し前に火を入れたと思われる。

豪華な料理は老舗旅館だけのことはある。

さとみがいない。

座布団に座り、私はいつ来るかわからないさとみを待った。

振り子時計の時を刻む音。

鍋のぐつぐつと煮える音だけが空間を支配している。

私の心臓は元通りになっている。

なぜあんなことになったのか?私は心臓が止まるのではないかという不安を拭えないでいる。じゃっかん心臓が痛む。

サッサッと足音がした、すると、障子がスーと開き番頭とさとみが立っていた。

番頭は私を見ると、

「おや、お客さん大丈夫ですか?」と言った。

私は「はあ」とわけもわからずうなずいた。

「あんたね、番頭さんがいなかったら溺れてたんだから、感謝しなさい」

さとみはからかい半分に言った。

あっけにとられていた。

そうだったのか、私は番頭にここに連れて来られたのか?あれっ?

しかし、さとみはどこにいたんだ?と尋ねると、さとみは「ずっと部屋にいた」という。

ここにいたという?

理解できない、混乱している。

番頭は、「お客さん、この湯が・・・ほれ、名湯だからと言ったでしょ。それはね、この湯は平家の落人たちの怪我を癒した湯だからですよ、そんじゃそこらの傷と違いますよ、腕がないとか、片足が切られたとか、内臓が切られたとか、そんな大傷をこの湯は治してしますんですよ。だから奇跡の湯と言われてるんですよ。お客さんのような五体満足な人が長湯すると湯あたりしておかしくなるんですわ・・まあよくあることですがね・・・もう少し見つけるのが遅かったら、へへへ、やばかったですよ・・・」

と言うと不適な笑いをして番頭は、一礼をして部屋を出て行った。 

あれっ?おかしい?とふと思い、番頭の後を追った。

番頭は細い体を揺らしながら廊下を音もなく歩いていた。

「ちょっと番頭さん、ちょっと」

番頭は、不思議そうに振り向いた。

「へえ?」

「さっきはお礼を言うのを忘れてた。ありがとう。これは少ないけど・・・」

数千円を出すと、番頭は頭を下げ、ちゅうちょなく受け取り袖にしまった。

「番頭さんが、助けてくれたんだよね」

はえ?」

「他には、いなかったのかい」

「へえ・・・」

「いやいや、少年とか犬とか・・・」

「へえ、いませんでした」

「自分はどこにいた?」

「館内を巡回して、脱衣所を見たんですわ、そして露天風呂を見たんですわ、するとお客さんが、うつぶせになっているのが見えたんで、慌てて引き上げたんですわ・・・」

「他にお客はいなかったの?」

「へえ誰もおらんで・・・」

「脱衣所に脱いであった浴衣はなかった?」

「へえ・・・なかったです」

呆然としていた。

「お連れさんに連絡して、部屋に連れてきたんですわ・・・おわかりになりましてえ?」

というと、不敵な笑みをして暗い廊下を歩いていった。

部屋に戻り、悶々とする気持ちを抑えていた。

しかし、豪華な料理の前ではどうでも良くなった。

人間というのは、リセットが簡単にできるのだ。さっきまで死にそうだった人間が、食欲を前にそれを忘れさせてしまう。これは消去という立派なありがたいヒトの機能なのだ。

さとみはすでに箸をつけていた。

「はよう食えよ、やなぎー、全部食っちまうぞ」

落ち着きを取り戻し、座布団に座った。

料理を前に、

「ああ、どれをまず手をつけていいやら」

躊躇している。

そんな私をからかうさとみは愛らしかった。今ではからかう女もいなければなにもない、張り合いのない生活をしている。

同棲していた頃、さんざん嫌味を言われ続け、辟易していた頃が懐かしかった。

その頃のさとみと私がここにいる。

10年前にこうして食事を一緒にして、くだらない話題で盛り上がりよく笑い転げた。

けんかも数知れず。愚痴も関西出身のさとみはきつかった。

疲れている私に容赦なく攻撃してくる。そういう時私は、黙ったまま時を過ごすのだ。

そうした黙ったまま過ぎていくと、仲直りをするキッカケを失い。

冷めた関係になってしまう。

それが、半年1年と続くともう何が原因だったかさえ、わからなくなってくる。

そうこうするうちに、もう一緒に生活できない、結婚できないと思うようになる。

せっかく田舎の両親に合わせ、なんとなく自分なりに段取りは、つけたつもりだったが、私の思うようには行かなかった。

母はいつ結婚するのか?とハッパをかけていた。

さとみの方は、私を兄弟に合わせられないみたいなこと言っていた。

妙なプライドかなんなのかわからない理由があり、重大な秘密を隠しているようでもあった。今思えば、なぜ親族に合わせられなかったのか理解できなかった。

その当時、「ヤナギなんか合わせるわけにはいかん」という冷たい反応だった。

さとみも馬鹿じゃない。

将来性のある男と一緒になりたかったのだろう。芸術にうつつを抜かしているような、フーテン男より、堅実な生活、真面目な仕事をしている男を求めていたのだろう。

そう考えると、さとみと別れたのはお互い良かったのかも知れない。

そう思わなければ、さとみとの関係を清算できない。

さとみは言葉を知っているようで使えない人間だ。

映画を見て感想を聞いたとき、

「かわいかった」それだけだった。私は笑い、馬鹿にした。

そういう積み重ねが不協和音を積み重ねるのだろう。

付き合った当初は、美しいメロディだった。しかし、関係が10年続くと、雑音ばかりの耳障りの音となって不快でさえある。

それは、さとみも感じていたのだろう。 

料理をつつく箸は、迷いながらもテキパキと動いている。さとみは黙々と食べている。

さとみの反応をチラチラ見ながら食べている。

「なあ、もういい加減やめにしようよ」

私は唖然とした。

「あんたと私は腹を割って話したことなかったよな・・・」

そう言われてみればそうだ。

そのあたりは避けてきた。

「私はオマエを好きだった・・・だけどオマエは好きじゃなかった」

「いきなり何を言うんだ。好きだったよ、本当に・・・」

「いや、オマエは好きじゃなかった、好きだったら、別れなかったはずだ、別れたのは好きじゃなかったからだ」

本質的、根源的なことを言われ、言い返すことができなかった。そうだ私は人を好きになったことがない。

なぜか?自分さえ好きじゃないからだ。だから人を愛することなんてあり得ない。

愛という無意味な言葉は私にとって、ただの石ころくらいでしかない。

なぜそうなったのか説明できる。

さとみには申し訳なかったとしか言いようがない。私のようなくずが幸せになれるはずがなかった。くずは所詮くずなのだ。

さとみはいい女だ、そんな良い女の大事な人生を奪ってしまった罪は死刑相当だ。

私は黙っていた。

さとみは、少し表情が緩んだ。

「なあ、オマエは悪い奴だよな・・・わかってるのか?」

こくりとうなずいた。

「やなぎーおまえはダメな奴だ、この美しい私を不幸にして、本当にダメな奴だ、反省しろ、オマエほど馬鹿はいない、私がどんな可能性を秘めた人間だったのか知らないだろ。アーオマエのような小さい奴にわからないだろうよ、ベー」とあかんべえをした。

さとみが心を少し開いてくれたことがうれ

しかった。

「でもね、やなぎー・・・もう戻れないんだよ、もう二度と戻れないんだよ・・・」

涙がこみ上げてきた。

「もうね、やなぎーさんと戻れないんだよ」

体の振るえが止まらなかった。

「もうね・・・戻れないんだよ・・・永久にもうねバイバイしちゃったんだよ」

「ごめん、さとみ俺が悪かった、許してくれ俺を、この俺を許してくれ、ごめん、本当にごめん」

畳の上で悶絶していた。

「もうね・・・終わったのよ、すべてなにもかも、何もかも終わっているのよ、時計の針は、1秒たりとも後戻りしないように、もう何もかも霧の中にすっぽり覆い隠されてしまった・・・そして私もどこかへ消えていったの・・・」

「さとみ・・・ごめん俺が悪かった許してくれ・・・」私にはほかの言葉が見つからなかった。

ただ、謝るしかない、ただ懺悔するしかなかった。

さとみも泣いていた、泣きながら、

「もうね、帰れないの、もうね戻れないのもうね、やなぎーさんとはお別れなの・・・もうね、お別れなの・・・」

私は泣いていた。畳に大粒の涙が落ちた。

犯した罪は、一人の女の人生を奪い、そして破壊した。

それがどんなに罪深いことなのか今更ながら感じていた。犯した罪は、人生で償わなければならない。

1回のあやまちで、この命で償わなければならない。

生きている価値がない。生きていても意味がない。さとみを不幸にした罪は私の払う代償は命以外なにがあろうか?

さとみは立ち上がり隣に来た。身をすり寄せ、耳元で

「ねえ・・・私のこと好き?」と言った。

私は顔を上げた。そして涙声で、

「ああ好きだよ、さとみほど愛した人はいないよ・・・本当だよ・・・」

当時は恥ずかしくて言えなかった。

さとみはやさしさに満ち溢れていた。

「そう・・・本当なんだね」

「ああ好きだよ・・・さとみがこの世で一番大切だよ。だから行かないで・・・」

さとみは、顔を近づけると私に口づけをした。

さとみは私にもたれて、

「もうね、私のこと離したら許さないんだから」

「ああ、もう二度と離さないよ・・・」

さとみの体の重さが感じられる。

心地よい重さ。さとみを抱いていると、時間の流れが止まり、世界が静止しているように感じられた。

 

記憶

時間が止まり、私はさとみの体に挿入していた。

10年前のさとみの体がよみがえってきた。

柔らかにまとわりつく肉ひだの中で私自身が大きく張って膨張している。

白い天井が見えた。白い天井には、ほこりのような黒い塊がいくつかあった。天井を見ていると私がこの世に生まれてきたそのものが罪であるような背徳感を覚え、意味もなく体が震えてくる。

目は正常を保ち、鼻も正常だし。耳も正常だし。機能は停止していなかった。身体を確認すると頭を傾けた。

身体を傾けると窓があって、外の景色が見えた。ぬれた葉に雨があたり丸い水滴になった。水滴はゆれる葉に翻弄されながら、落ちていく。

私の体は、精気を吸い取られたようにピクリともしない。

体内から魂が失われ、気力だけが維持しているだけの植物状態のようだった。

血液が全身に巡る感覚。

ドクドクと生暖かい水が管を流れている。そして、心臓が動いていることにやっと気づいた。

肌につけている衣類の繊維の感覚がわかるようになる。 

背中が過剰な反応をして痛む。首を曲げると首が折れそうな気もするが、試しに反対側に顔を向けるが大丈夫だ。

頚椎は数年ぶりに電気を入れた機械のように、骨と骨を音を立てずれていく。

呼吸を意識して、四肢を延ばす。はじめは浅く、そして深く体に力が入るようにする。

筋肉は衰えている。

目に見える私の体は、骨ばかり目立つ体になっていた。

さっきまで、あんなに楽しい日々だったのが、一瞬にして悪夢となった。

精神は、混沌としてはいるものの、ハッキリとした喜怒哀楽がある。

感情は高ぶりなすすべもなく、叫ぶことしかできなかった。

私は天井に、

「チクショー」「チクショー」と叫んだ。叫ぶたびに背骨がきしみ痛みが全身に通過した。

「チクショー」この体が憎い。

この体はいらない。この体を脱皮したい。

蝉の苦しみは、長い間土の中で芋虫の生活を強いられることだ。

醜い芋虫は、やがて羽を持った蝉として空を自由に舞う。

 

 

記憶 

砂浜にいた。暖かな日差しと青い空、南国の景色があった。波は穏やかだ。

満ち足りたこの感じに、幸せを感じている。幸せなのだと思っている。

目の前には、男の子が波打ち際で遊んでいる。トンネルを作り、トンネルの中に入り、私に手を振っている。私も手を振っている。

子供は、深い穴を掘るのに夢中だった。

この子は、大人になったら、設計士か建築士になるのではないのだろうか?

この子の将来を考えていた。

この子がいたら、それだけで幸せだった。

この子が私の生きがい。生きている証。

この子の将来を考えると私の暗い人生を打ち消してくれるそんな気がする。

子供は私の希望。私の願い。

キラキラ光る水面は黄金色。大好きな海。波は永遠に動きを止めない。

南国の空は、鮮やかな原色で私を包み込む。

ひざを抱えたまま眠っていた。

それから、何時間が過ぎたろうか?

体は波打ち際にあった。

次の瞬間、心臓に棒が突き刺さったような恐怖に襲われた。

「私の子はどこ?私の愛しい子はどこ?」

慌てて立ち上がり、四方を見回した。

大勢の人だかりができている。そして、次に見えた光景は、海に浮かんでいる子供の背中だった。ピクリともせず動かなかった

ただ呆然と見ている。

それがなんなのか理解できない。

体が崩れ落ちそうな瞬間に夕空を見た。

夕日の入道雲の中に私の顔が浮かんでいた。

私の存在は、いつもつきまとって私を不幸にした。

幸せの中に、私の顔が浮かんでくる。それは冷めた表情で見つめている。

私に対する気分は不快そのもので、私を打ち消すために、罵声を浴びせ追い払う。

覆うオーラは、どす黒い腐敗した臭いがする。

そこにあるかのように、どうしようもなくいらだってくる。どうしようもなく、腹が立って憎しみを覚える。

それは、愛と憎しみの交差した苦悩だった。

苦悩は、時々不意にやってくる。それも幸せだと思った瞬間に突風のごとくやってきて、カマイタチのように切り裂いてくる。

残された私はズタズタになり、無残な死体となって転がっている。

思い出したくない過去は津波のように魂までも飲み込んでいく。

それが過去に抱く思い。消そうとしたが、脳裏から離れられない。

不快になり怒りさえ覚えてきた。

幻影は消え去り、心拍数は高いまま。

また時が過ぎた。 

子供がいたのだ。子供がいた。

しかし、子供は消えてしまった。

海の中に・・・

目を開けると、さとみを抱きしめたままで時間は通り過ぎていた。

何も考えない、考えたくない。

ここが死の世界であろうと、今ここで受け入れる。さとみの悲しい記憶が私の中に投影された。

罪作りな男が、さとみの人生を狂わせた。

さとみは本気で愛していた。私の子を望んでいた。家庭を築きたかった。

それが叶わなかった現実の世界。

さとみのどん底の悲しみ、計り知れない不幸を知った。

「さとみ・・・」

体の感覚から、さとみの柔らかな体が溶けていく。逃すまいと力を入れた。

だめだ・・・

何もかも消えていく。

何もかもこの手から去っていく。悲しくてしょうがない。悲しくて嗚咽しか出てこない。

さとみは、消えてなくなり私は自分の体を抱きしめていた。

気がつくと白い湯気の中に自分ひとりがポツンと立っていた。

ここはどこなんだ?

いったい私はなぜここにいるんだ。突然の恐怖

目の前が真っ暗になり、前に倒れた。もうだめだここで死ぬのだ。死が私を呼んでいる。

目を開けると、さとみが笑っている。

さとみは語る。

「おまえはいい奴だよ。いい奴だったよ。だからやなぎーのことは、忘れないよ今度生まれ変わったら、また逢いたいね。今度こそ仲良く幸せになろうね。やなぎーさんごめんね・・・さようなら・・・さとみとやなぎーさんは、いつもなかよしだよ・・・」

遠ざかるさとみ。私はさとみを逃すまいと、

「待って、さとみ待ってくれ・・・俺も行く俺も連れて行ってくれ・・・さとみ・・・さとみっ」と叫んでいた。

さとみの消えていく方に走った。しかし追いつかない。追いつかないばかりか、足元にゴツゴツしたものが邪魔をしてうまく走れない。

足に丸いモノや滑らかな、棒のような足の裏に感じられる。

ごろりと丸いものにつまづくき、湯の中を見た。湯の中はまるで地獄だった。

頭蓋骨と人骨が無数に転がり、それが果てしなく何処までもあった。

ここは、墓場。

精神と肉体が離れ離れになり、骨だけが行き場を失い、自然にここに集まってきた。

骨は、腐りもしない、消えてなくなりもしない。人があった痕跡は骨が語っている。

骨が意識を持ったように動き出した。

生を羨むように、生を飲み込みたいかのように。

白い湯気で何も見えないが、とにかく走る。 恐怖を払拭しようと走るしかなかった。

どこをどう行けば出口にたどり着けるのかまったくわからないまま走った。

脱衣所はおろか岸さえ見えない。ここはいったいどこなんだ。

さとみはいない。気配すらない。さっきまで死んでもいいと言っておきながら、慌てふためいて、もがいて生を失うまいと必死になっている自分は惨めだ。

なにも捨てきれない、矛盾した私の人生そのもの。  

どこから、聞き覚えのある声がした。

「おーい、おーい」と聞こえる。

遠のいてく私の記憶から、よみがえるあの声の主は、番頭の声。

そうだ、番頭の声。

番頭の声は仏の声にも聞こえる。声のするほうによろけながら歩く。

「おーい、おーい、おーい」と声がするほうに歩いていく。真っ白な湯気で見えないが、声のするほうにいけば元の世界に戻れるのだろう。生への希望だった。

脱衣所が見えた。しかし番頭の姿はない。番頭の声がしたのに・・・おかしい?

呼ぶ声がここからはしたはずなのに。

風呂地獄から這い上がり、その場に崩れた。

狐のつままれたように私は呆然としていた。

月がきれいだった。落ち着きを取り戻し、脱衣所に入り浴衣に着替えた。

鏡を見た。私がいた。私の顔は怯えている。

ここは、私が来た迷路。私が望んだ墓場だったのだろうか?

さとみの浴衣を探したが、どのかごにも浴衣はなかった。憔悴しきった。探すのをあきらめ部屋に戻ることにした。



現実

長湯でのぼせた体は、火照っていた。体が火照っていると思考もどんよりしている。

水を浴びたい。喉がむしょうに枯れている。体内から水分が喪失している。カラカラになったからだは長い間干からびてしまったかのようだ。

そのとき清水の音を聞いた。涼しそうな沢の音は誘っているに違いない。

濡れた石段を見つけると、一歩一歩慎重に降りていった。

月明かりに光る岩が自然の力強さを感じる。川に入るとぞっと冷気が全身を駆け巡った。

水を手ですくい顔を洗った。頭から水に入った。ボーとしていたさっきまでの感覚がはっきりと目覚めていった。

水をがぶ飲みした。山の冷気で体は正気を取り戻していた。

瞬間、背後からドンと背中を押された。私は前のめりに倒れ川に流されていった。

流れは早くはないが、水底の石がヌルヌルと滑るので、うまく立ち上がれない。幸い、水深は浅く立ち上がることができた。

生暖かい、なにかが頬を伝わった。手で拭うとそれは血液だった。血液は口の中に入り苦い味がした。

足を滑らせたのか、押されたのかわからなかった。それが問題ではなく、今血を流している私は生きているんだという証なのだ。生きている、それが重要だ。

さとみはどこにもいない。私に抱かれ、腕から消えていった。それが現実であろうと、なかろうとすべては過去なんだ。

悔やまれる日々であっても元通りにはならない。それが諸行無常なのだ。

形あるものは無に帰し、完成されたモノは永久ではない。

ましてや人という不確実な生物は、風になびく枯れ葉のように、いつなくなってもおかしくない。

私は放たれ、地に落ちた枯れ葉なのだ。地に吸収され、そして消えていく。

生きるために川を渡り、階段を登った。歩いた後には、血が点々と付いる。

旅館の廊下を戻り、今度はどういうわけか迷いなく、幽玄の間に着いた。

その場で寝てしまったようだ。



翌朝

数時間後、賑やかな蝉の大合唱で目が覚める。

血液がべっとりと床に付き、それがタール状に乾いていた。

髪の毛の付いた血をはがし鏡を見る。

ひどい顔だ。血だらけの顔だった。映画キャリーの女のように無残だった。痛む傷口を洗い流した。水が傷口に沁みて痛かった。

ジンジンする痛みがあった。

それは生きているという証拠だった。

昨日のことは、覚えていなかった。夢をみているような、朝目覚めると、すべての記憶を失うような夢ような感覚だった。

だが、頭の傷の理由も記憶を失った今、どうして血が出ているのかわからない。

しかし、自力で現実に戻ってきたことだけは確かだった。

さとみがいない。

昨夜は、さとみと夕食を食べ風呂に入った。

さとみはどこなんだ?

ガラス窓をトントン叩く音がした。振り向くと、普段笑ったことがないような、番頭のにやけた顔が張り付いていた。

さとみを探さねば・・・

黒電話が鳴った。

女将の声だ。

「お客様、朝食のご用意ができましたので、豊の間にお越しくださいませ」

「あの・・・連れは、知りませんか?」

「はい、存じ上げません」

「そう・・・」

普段着に着替え、豊穣の間に行く。

部屋を出ると、迷路のような廊下が待っていた。しかし夜より、余裕を持って歩くことができる。

難なく、豊の間に着いた。

部屋に入ると、だだっ広い洋間は朝日に輝き、テーブルと椅子が整然とあった。

女中が「こちらです」と案内した。

言われるがままに、席に着くと、一人分の朝食しかない。

女中に、「一人分足りないよ?」と言うと

女中は少し慌てて、

「はい、ただいま」と言い残すと、部屋から消えた。

少しして女将が来て、女将が言った、

「お連れ様でしたら、早朝用事があるとかでチェックアウトされました・・・」

私は一人残されてしまった。この言い知れぬ寂しさはなんだ。女将はそういうと、和服の裾のこすれる音を残し、部屋を出て行った。

 さとみの気まぐれには、がっかりだ。元に復縁できるものと思って淡い期待だったが、

結局何もないまま私はまた一人ぼっち。

朝食もいつもと同じで、味気なかった。

食事を終え、部屋に戻った。

かばんに荷物を入れながら、部屋を見回した。柱時計の音と蝉の音が混在する部屋。

手紙が置いてあった。

折りたたまれた紙を広げる。さとみの字だ。

やなぎーさんへ おまえにこんなことを書くのは、ドイツからエアメールして以来だけど、おまえが帰って来たら、いろいろ言おうと考えていたけど、お前の本音を聞きたかったけど、おまえを少しわかったよ。お前は逃げたし、私も逃げた。それだけだよ。愛していたけど愛されていなかったのが気づかなかったんだよ。でもねでもね。やなぎーさんとさとみはずーと仲良しなんだよ。わかるか?そういうことだ。私は美しくなってやるし、なっているから、おまえは楽しみに待ってろ。わかったか。イエーイ じゃあなバイバイそれまでシコっていやがれ。

さとみらしい文章だ。私は手紙をポケットに

入れた。



チェックアウト 

旅館を出ると、女中と女将が深々とお辞儀をして送り出した。前には、番頭が待っていた。番頭はかばんを奪うと、後部座席のドアを開けた。車に乗り込むと、すぐ車が動いた。

「お客さんいかがでしたか?」

「・・・」

「お連れ様にお逢いになりました?」

「ああ・・・」

「そりゃあ、ようござんした。逢えたんですね」

「ああ、それがどうか?」

「いいえ、別に・・・」

「そういうの、やめてくれんか。もったいぶって・・・」

「はあ、申し訳ありません。たまにお逢いになれない方もおられるんで・・・つい」

「はあ?」

その後、昨日の出来事を話すが、番頭はしどろもどろに答える。

私の質問攻めに、さすがの無駄口の多い番頭も黙ってしまった。

仕方なく消化不良で口を閉じた。

車の背後を見ると、木々にさえぎられた風景があった。

人を隔絶する空間が背後から追いかけてくるようだった。



バス停からその後

昨日のバス停に到着した。番頭は深々とお辞儀をして、車に乗り込むと、こちらをチラリと見て走り去った。

残された私は呆然とその場に立ち尽くした。

一人残され待合室で、これからどうすべきか考えていた。

刻々と時計の針がが進んでいく。

時刻表を見るが1日に2本しか出ていない。昼と夕方の2本しかない。まだ時間の余裕はある。

先のことを考えていた。あの部屋に戻り、同じ生活を続けるのだろう。

意味があるのだろうか?いったい自分はここへなにしに来たのか?帰りたくない気もする。この世間から隔絶された山奥に住んでみたいと思う。

控え室から、ラジオの音が漏れていた。

雑音混じりの演歌らしい音楽。

何気に割れたガラスの窓から覗いた。

しかし誰一人そこにはいなかった。というより人の痕跡はあるが気配がない。

くもの巣が部屋中に張り巡らされ、ホコリが机に積もり、テレビは割れていた。

窓ガラスが煤けている。時を刻まない時計。

思い切り開けようと、引き戸にグイッと力を込めたが開かない。おかしい?

ここから運転手は出入りするはずなのに。

私は外に出て、控え室の入り口を探した。

草が窓の下まで伸び放題だった。

一つだけ、石の踏み台があった。雑草を掻き分けると、裏側に引き戸があった。開けようと、思いきり力を入れた。びくともしない。

どこに来てしまったのか?ここは一体どこ?もう逃げられない。そう悟った。どうしたと言うんだ。

現実から、戻ることはできない。

空を見上げると空は青く雲は流れている。

太陽が私を包み込んでいる。

暑さを実感しているのに、存在が失われている現実は、理解できなかった。

覚悟を決めた。それは不安に駆られながらも、後戻りはできない決心だった。

 

あそこへ戻る

旅館に帰るため、うっそうとした緑の中を歩いていた。

車で通った道は、すでになく歩いているのは、舗装されていない獣道だった。

足元さえおぼつかない道。

汗だくになりながら、どこまでも続く道を歩いている。

この道は、たぶん以前はきちんと舗装してあったのだろう。しかし長い年月ほったらかしにされ、現在のような荒れた道になっている。

しかしさっきまで、車が通れるくらいの舗装された道だったのに、おかしい?

道を間違えているのだろうか?考える余裕もなく、ひたすら前に歩いていく。 

 

廃屋

やっと見覚えのある場所に出た。林を切り開いたオアシス。そこにあるのは、廃屋になった旅館だった。古ぼけた二度と動かないようペシャンコの車。

なんの疑問もなかった。なにがあっても現実を受け入れ、それが私の選んだ世界なのだ。

廃墟に向かって歩いていた。さっきまでの豪勢な風情はなく、ただ荒れ果て、歳月を重ねた廃墟だった。

幸いにも荒らされていない。

 

再会

廃屋に入ると帳場を覗く。帳場には風化して茶色に変色した台帳があり、私の名前が記されている。そうだ私はここに宿泊していた。

日付は10年前だった。さとみと逢っていた。

さとみが私をここに呼びつけ、さとみを抱き、そして、別れた。

それが先日の出来事だった。

先日の出来事すら自信が持てない。昨日、今日、明後日、去年、2年前、10年前、自信のある記憶と現実は、果たして確信のある現実だろうか?

人は記憶をあいまいのままに生きている。

それが苦悩の連続となり、自分を苦しめる結果となる。記憶は罪を重ね懺悔することも許さない。

記憶の神がいるのなら、記憶の神に懺悔するであろう。そして、記憶の神に私を生贄としてこの身をささげるだろう。

迷路の廊下があった。食事をした豊の間を覗くと、がらんとした、なにもない暗い空間が広がっていた。床がむき出しでところどころ草が生い茂っている。

窓ガラスから入る西陽が、豪華な廃墟のダイニングに射していた。

さとみと一夜をともにした幽玄の間に入ると、モノが乱雑に置かれたまま、植物が主人の変わり果てた部屋に変わり果てていた。

記憶とは、なんと拙い糸なのだろう?

さっきまでくつろいでいた。

椅子はほこりにまみれていた。

さっきまで椅子に座り、ここで何があったのかを考えていた。

おろかな存在。私は過去に縛られ、過去に生き、過去の奴隷となり果て消耗されていく。

決して後戻りできない時間の壁を私は後悔し恨んでいる。

自分自身が、もう限界点に達していた。

限界だ。

これ以上の苦痛を味わうことへの痛みから解放されたい。 

美しい沖縄の海を見ていた。透明で透き通った水は私に迫っていた。かつて住んでいた沖縄の美しい光景は私の心を癒してくれた。

海は包み込むほどに美しい過去を思い起こさせる。青と白の海は私の脳裏に鮮明に残っている。

夕焼けの太陽が廃墟に忍び込んでいた。 

立ち上がり、もう二度と戻れない都内のアパートを放棄した。

迷路の廊下を抜け大浴場へ行った。

 

 

別れ

大浴場のそれは見る影もない。

沼で雑草が覆っていた。昨日までこの温泉に浸かっていた、さとみを抱いた風呂が瓦礫と化している。

不思議とこれが自然の状態と感じていた。

思い切り深呼吸をした。

かばんを降ろし、木っ端の上を歩き沼の真ん中まで来た。そして靴のまま沼の中に一歩一歩入った。沈んでいく足。二歩目には、靴が脱げ、3歩目は無数の何かにつかまれたまま動けなかった。

そして、歩くこともできない。膝まで沈んだとき。番頭の声がした。

「お客さん、戻って来たんですか?今でしたら戻れるんですよ・・・今でしたら、帰れるんですよ・・・ええんですか?」

もう戻れない。戻ることを許されない。

泥沼は下半身を飲み、音もなく体が沈んでいく。

「さとみ、おまえはもういないんだろ。おまえは違う世界に行ってしまったんだよね。俺が悪かった。すまん、許してくれ」

晩夏の虫の音が私を包み込んだ。

徐々に体が沈み、肩越しまで来ていた。

覚悟はしたとはいえ怖い。振り向くとかばんが見える。

数人の見知らぬ人たちが立って私を見ていた。表情は見えないが、みな無表情だった。

肩まで沼に吸い込まれていった。そしてついに息ができなくなった。

心臓が止み、呼吸が停止した。

ようやく過去と決別し開放された。

私との決別であった。

真っ暗なところにいた。地獄なのか?不安だった。

真っ暗な洞窟には、生暖かな生き物がうようよいる感じ。

歩き、そして立ち止まる。

ダンテの神曲では、シナイ山が見えたりするらしいが、そんなものは見当たらない。

ただ真っ暗な空間だけが私を包み込んでいる。不安と絶望が来て発狂しそうだった。

すると甘いミルク臭の香水が匂った。

さとみの匂いだった。

暖かなやわらかい手を感じた。

「しょうがねーな、やなぎー、ほれ行くぞ」

と手を引くさとみ。

こうするしか、さとみとは一緒になれなかった。決断しなければ、さとみを得ることができなかった。

過去への決別とは、生死を賭けたものだった。

さとみを失ったことへの死刑宣告。それを執行した。

こうして、さとみと再会できた幸福。

出会えた幸せは、自分の選択が間違っていなかった。

手を引くさとみはうれしそうだった。

そんな、さとみを見ていると、幸せな幸福が私を満たしていった。

この感覚、喜びと希望と祝福に満たされたさとみと出逢った頃の初々しさだった。

失っても取り返せるものがある。

 

おわり