仏教の現代の意義とは?

仏教の現代の意義とは?

 世界の主な宗教である、キリスト、イスラム、仏教があります。大きな違いは一神教であるかないか?互いに争いをしているのは、キリストとイスラムです。仏教も皆無とはいえませんが、ほぼないでしょう。

 

 ダライ・ラマ法王は一貫して非暴力を訴えています。彼は活仏としてこの世に転生をした指導者ですが、現在の宗教界において、彼のような存在は皆無です。ローマ法王は、掛け持ちですので、私には精神的指導者の権威を見つけられません。

 

イスラムにおいても、指導者という人物が○○派とおりますが、その指導者達は混乱と混沌を引き起こしているとしか見えません。そのような混沌とした世界で、仏教は一貫しています。それは寛容であり、多様な神々の存在があるからです。この認識を持てば、世界は平和になるのではないか?と思います。

 

 一神教の思考は、とどのつまり絶対の全体主義でしかありません。それは、人間の多様性を拒否して聖書、コーランに書いてある事すべてが正しいとする考えです。そこには、おおらかさや人間らしさを見出すことは出来ません。仏教の教えやブッタの逸話には、人間らしさに溢れています。

 

 スジャータの逸話もそうですが、ブッタは様々な経験と様々な試練を神々から試されます。ブッタはくじけずに悟りの道を探求しますが、それは旧体制のバラモンに対立して、背を向けることではなく、ほんらい人の幸福を追及する上で、なにが一番大切なのか?当たり前のことを、お釈迦様は説いているのです。それは、現代社会に通じるものです。物質が豊であろうとなかろうと、心はなんら紀元前の人と同じなのだと思います。

 

家族を思い、衣食住を充足させるという根本的なところは一緒なのです。ただ文明が違うだけです。よく現代人が言います。「昔の人は遅れている」と言います。本当でしょうか?ではなぜ争いが終わらないのでしょうか?現代人が優秀で理性的であるなら、すでに宇宙にコロニーができて、火星に人は居住していたでしょう。手塚修先生の鉄腕アトムのような時代になっているでしょう。

 

それがいまだに見えないのはなぜでしょうか?いつまでも争い続け、永遠に終わらない戦争を続けているのです。それは過去の人々から言わせれば「何をしているんだ?この動物的な人々は?」と思われるでしょう。

 

 全てが宗教がらみとは言いませんが、人々の争いの根本にあるのは、自身が信じる宗教であり、国家であり、信念です。ですから、戦争の時代の人々は、悲惨でありましたが、そこにはリアルな実生活がありました。今の私たちと同じように、食事をして就寝して明日に希望を見出していました。しかし時代背景が戦争ですから自由の拘束がありました。

 

 現代の私たちの生活で拘束はなくなったでしょうか?強制的にはないですが、あらゆる場面で拘束があります。しかしそれは緩やかであり、寛容です。それは過去の経験から学んできたからです。過去のほうが良かったと言う人は大勢います。しかし過去の人も当時「昔は良かった」と言うのです。人間とは現在の立場が不安定だとどうしても過去の成功体験を思い出し懐かしむからです。

 

 日本には、仏教伝来以前からある自然崇拝アニミズム文化がありました。それは形式がないので、国の国体とするのは難しいかった。曽我氏が仏教を推し進めると物部氏が阻止しようとします。この争いは、曽我氏に軍配があがります。

 

 日本人の根本にあるのはやはり神道です。それは見えない近いへの畏敬の念です。これは地球上どの民族にもない意識です。日本人はこの事実を血に肉のように生まれてから自然に身についています。この日本人の多様性を理解できる他国の人間は皆無でしょう。

 

 自然の中に神々や仏を創作して、それを擬人化して畏敬の念を持つ。そして手を合わせお経を唱えたり、真言を唱える。これをなんの疑問も持たず、自然にできる民族が日本民族といえるでしょう。

 

 仕事で知り合ったパキスタン人のイスラム教徒は、仏像、記念碑は全て愚かな物と断言していました。意味がないとまで言い放ちました。彼らにとって彼らの文化にとって偶像崇拝は悪なのかも知れません。

 

 ブッタも「自分の姿かたちを残してはならない」とあります。ブッタの涅槃後は、姿形はありませんでした。しかし弟子たちは、ブッタの形を再現しました。信仰としての存在が必要になったわけです。ブッタ涅槃後は弟子たちは民衆へ仏教を布教するためにブッタの姿を彫刻したのだと思います。

 

それにより人々は、現実にブッタという人物が存在したことが証になり、ブッタが本当に導いた仏教が深く浸透していったのです。 本当に神仏の姿を形作ったとは言い難い。だからと言って完全に神々を模様化したり、するのは仏教文化の人々は理解できないと思います。それが仏教徒イスラム教徒の違いです。

 

 私の故郷には、白幡山という天台宗のお寺があります。本堂脇に焔魔堂がありますが、真正面にのぞき穴があります。子どもの頃から、そののぞき穴から見ていますが、薄暗い奥に、閻魔帳を持った、閻魔様が立っているのです。私は怖いとも恐ろしいとも思いません、逆に親しみを覚えています。

 

 もし閻魔様の木彫りの像がなかったら、親しみも芽生えないでしょう。さらに信仰心もわかないでしょう。怖くて恐ろしい閻魔様と眼があったからこそ、未だに懐かしさを覚えるのです。偶像は偶像でありますが、人はそこに自分を投影しているのです。その何がおかしいのでしょうか?

 

 数年前にイスラム教徒がバーミヤンの石仏を破壊しました。涙が出るほど悔しかった。仏教が未来永劫あり続けるのは、人々が本当に必要としているからです。仏教の中には、本来人が他人と生きる術があり、人生への問いかけとその答えがあるからです。キリスト、イスラムを知らないので勝手な想像でしかありませんが、彼らにも彼らの正義があるのでしょう。ただ私には私の血肉とならないのです。