フードコートの老夫婦から学ぶ 美しい老後とは?

老夫婦を見ると悲しくなる。

フードコートにいると様々な人が入れ替わり去りという人間模様が見られる。そんな中、老夫婦が目の前に座った。70を越えた男性が一人前のテーブルに座った。私と対面するように。なんとなくなんで背をむけないんだろう?と思っていた。


少しすると、奥さんらしき人がやってきた。男性より若々しく60代くらい?の印象だった。この奥さん?はテーブルに座るでもなく、テーブルを拭きだしたり、手を洗ったり、落ち着かないのだ。座ればいいものを座らずになにかやっている。
立っても150センチあるか?ないかの?小柄の女性だが、スマホを操作したりしている。


座って落ち着くことなく、どこかへ消えた?と思ったら、いつの間にか座っていた。買ってきて蒸しパンを男性と分け合って食べていた。男性の自然な感じがよかった。この時間を楽しんでいるようだ。この男性が病気を患い、入院していたかも知れない。生命の危機的状だったかもしれない。現在ガンかも知れない。そういった勝手な私の想像を駆り立てていた。

なぜそう思うのか?私の両親もかつてこんな光景をやっていたのだと思うと、胸が張り裂けそうなくらい悲しい気持ちになる。自分の両親に照らし合わせると、目の前の老夫婦の光景が涙なくして見れない。


老いていく両親は、お互いをかばい合い、生きていたのだ。何気ない日々をなにげなく生きていた。そこには、お互い長年築いてきた深い絆がある。どんなささいなことでも見逃さず気遣える関係。そんなやさしさを見ていた。

どちらかが先に行くことは理解している。そうであっても寄り添う時間を大切にしていている老夫婦を尊敬と敬愛のまなざしで見ている。なぜパラパラ漫画の鉄拳を見たときに、涙が流れたのか?

 

人がお互いを愛しみ、いたわり生涯を生きていく美しさは、お金では買えない。お金があれば素晴らしいという幼稚な人には、理解できない。

病院帰りで、病院からもらった薬を整理している目の前の光景。

いつまで元気にフードコートに来て、食べて飲んで、それができる時間はいつまでなのか?いつまで老夫婦はこの幸せを続けられるのか?

奥さんは、夫のこまごまとした用を先に用意している。体が動く奥さんはこまめにアレコレ買ってきては、ご主人と分け合っている。

両親もそうだった。病院の帰りに行きつけのそば屋があった。車で近くを通ると母は「ここでお父さんとよくお蕎麦を食べた」と涙ぐんでいたのが印象に残っている。

そんな母は、父が他界した後、5年後に他界した。仲の良い夫婦だった。そんなおしどり夫婦の日常が崩れると、人はもろくなり、心も体も弱っていく。

生前は気丈で涙を見せない母であったが、大黒柱の父が他界してから涙もろくなり、元気なころの母ではなくなっていた。そんな母を私は受け入れなかった。自分自身の後悔。そして父の存在の大きさと偉大さを身に染みたものだ。


老いていく運命の中で、やがてどちらかが消えていく運命。

 

美しい人生とは?お互いの老いる姿を見続け、そして亡骸を見つめることだろう。それができる幸福な人と不幸な人がいる。

 

人は本来、寄り添って生きるものなのだ。

人という漢字が寄り添っているではないか?