ザ・生きる 意味 なんで私は生きているのか? 

お客さんをやっていると、会話にはずむこともしばしあります。年配のお客さんは、いろいろですが、だいたい子供自慢孫自慢となります。自分自慢もありますが、ホテルに泊まって、温泉に入りに来るというのは、庶民の楽しみです。毎月来られるお客さんもいれば、1年に1回、事前予約をして来るお客さんもいます。定期的にマッサージに通うお客さんもいます。

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私は天涯孤独の身なので、自慢話をされると、閉口したいところですが、商売柄、話の相手をしなくてはならない。それが、苦痛なのです。だいたい人は、不幸を自慢する人はいません。不幸であっても、ウソをつき、脚色します。それが普通です。

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幸福話は、私自信の苦痛です。子供が大学入試、子供の志望校が国立、子供の就職先が一流企業、病院、大学教授、公務員結婚先が医者、大学の先生、研究所職員。子供が剣道のインターハイ出場、孫がいて県の募集で優秀賞を取った。孫がクラスでトップクラスにいる。大家族で家が楽しい。最近新築した。そういう話をするお客さんに、私はヘラヘラと笑って同意している。そんな自分が情けない。なんだか、自分が最低の人間であるという意識が芽生える。

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全部、自分に微塵も当てはまらない。嫉妬、執着、怨念で生きてきた自分は、こういう輝かしい経歴と真逆に生きてきた。それが、ウソ偽りのない私。媚びる必要もない。威張る必要もない。不自由でいる必要もない。社会定規を当てはめ、私を計るとぐにゃぐにゃ曲がっている。だから、計れない。

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計ろうと何度も試し見てそのたびに失敗し、元のぐにゃぐにゃに戻る。スライム人生 と言ってよいでしょう。手に乗せた時、ぐにゃりと指の間から、落ちていく緑色の不気味な物体。冷たくて、ひんやりしている。そして、手に馴染まない。温かくしてやると、耳たぶよりも柔らかな官能的なモノになってくる。

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夢で、南無阿弥陀仏という意識がありました。岩窟の中で、袈裟を着た坊さんが瞑想する絵がありました。だから、これから、南無阿弥陀仏と唱えます。そして、死期が近いのかと予感させる夢でした。人は、死ぬ前に無宗教であっても、南無阿弥陀仏と唱えるそうです。死にたくはないですが。

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クリスマスを経て、年末、正月とイベント盛りだくさん。しかし毎年それを、やり過ごす自分。露天風呂に入り、いつも決まった時間にいる爺さんと川を眺めて入っている。岩肌に美しい苔が生えている。